――ああ、わかっておられたのだろうか、この人は。







 落ちなさい、と告げたときのこの人の顔に浮かんだそれは、悲しみだろうか、驚きだろうか、失望だろうか。
 怒号や剣戟、銃弾の音。いななきが鋭く空に響き、いまにもこの陣へ達しようとしている。戦の開始にはこの山間を白く染めていた霧はいつしか晴れ上がり、しかしそのかわりに土埃が立ち込めている。そんななかであるのに、なぜかこの目の前の人の、瞬きをする音が聞こえるような気がしていた。細いからだに染みついた、すこし甘いような墨の香がするような気がしていた。
 殿が、先程ヒュッと吸い込んだ息を、ゆるゆると吐く。それを見て、ああもしかして俺も緊張していたのだろうか、と少しだけ思った。

 端から負ける戦だったわけではない。俺の、この島左近の意地にかけて、そのような戦ではなかった。しかし、必ず勝てる戦であったということもできない。この人の義への思いの前に、俺は屈した。そこにある策を捨て、このような結果を招いてしまった。同志というのなら、なにをしてでも勝つべきではなかったのか、いやしかし、そのような勝ち方をしても、まったく意味のない戦だったのだ。だからこれでよかったのだろう。
 けれど俺はあなたを思ってそうしたのではない、反対を押し切らなかったのではない、単にもうなにもいえなかっただけだ。あなたのそういう、義というものが、どこへゆくのか見てみたかっただけなのだ。
 義といえば聞こえがよいが、理解できぬものにはそれは、青臭い理想論、見栄や矜持にしかうつることがなかったろう。そんなものだと、この人の思いをそうやって貶めたいわけではない。けれど俺もときには思ってしまう、もうよいのです、と。もうそのように意地を張らずともよいのです。あなたが苦しまずとも、よいのです。
 そうして全部、なにもかもを捨て去ってどこかへさらっていってしまいたくなることもあった。しかしそうするには俺は、誇り高く天下に義をとなえようと背をのばす、あなたの姿に惚れ込みすぎている。第一そのような言に耳を貸すようなあなたではない。だから、この無謀ともいえる策にいのちをかけたのだ。このうつくしい人を守りたいがために。
 だからあなたはそんな顔をしてはいけない。そうと決めたのはあなただ、これはもう何年も前から予測されていたことだ。秀吉公はすでに亡く、天下は決せられようとしている。それでもたたかうと決めたのは、他でもない、あなたなのだ。それとも、いまになってようやく気づいたっていうんですか。そうだとしても不思議はない、この人には、どこかそういうところがある。
 そんな顔をしないでください。俺はちっとも悲しくはない。
 いまもこうして弾に貫かれた腹が焼けるように熱く、一刻一刻、いのちが流れ出していっているのがわかる。けれどいまこのときほど、生きている、と、そう思ったことはない。あなたのためにこうしていのちをかけ散っていくこと、なんの悔いもない。あと何回か、刀を振るう力くらいは残っている。ただ最期まで、あなたといっしょにはおられぬだろうということだけが、もうあなたに策を献じることができないことが、これだけ大きな戦をしかけた後だっていうのにそれだけは残念だから、俺も心底軍略家だとあきれる思いでいる。
 そう、あなたはこの俺に、この愚かな軍略家に、最高の舞台を用意してくださったじゃないですか。誰が勝とうが負けようが、そのことは天下にならびなき事実。そのことだけは、これから誰がいくら俺たちのことを罵ろうとも、かわりのないことだ。俺はそれが誇らしい。
 そう、俺は誇らしいのだ。世に倦んでつまらない日々を浪費していた俺の誇りを取り戻してくだすったのは、殿、石田治部少、あなたのその眼差しなのだ。だから俺は、あなたに、そしてあなたの義に殉じ、あなたに報いられることがこんなにも誇らしい。
 殿、俺のあるじ、なによりもたいせつな御方。

「いってくださいよ、殿」

 左近は欲張りなのです。 軍師としてあなたのために策を献じ、将としてあなたの名に恥じぬたたかいをし、あなたを支えたいと思った。あなたの身を、理想を、すべてを守りたいと。それが俺の夢だったのだ。だから。

「殿」
「……左近、」
「ご武運を」

 あなたはくるりと身を翻す。赤が散る。目を閉じても、まなうらに残るような、鮮やかな赤色。



 鳥がゆくのを、左近は見た。土煙の合間に、鳥が空を切ってとびゆくのを。うつくしい、と思った。束の間、眼を閉じた。
 慶長五年九月十五日、未の刻のことであった。


20080915
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